Mの独り言

アラカン女性が感じる日常です。

答えが出ない。

Eテレ安楽死を選んだ女性のドキュメンタリーを見た。

体の機能が徐々に失われていく難病にかかり、自分の尊厳を保ちたいとスイスでの

安楽死を選んだ。

呼吸器を付け天井だけを見つめる生活、栄養だけを与えられ何の意思表示もできずに

ベッドに横たわるだけの日常がどれほど自分を傷つけるのか想像してほしいと

傍に付き添ってくれる姉たちに訴えていた。

よくわかるな、その気持ち。

 

それでも最期、スイスに渡り、最終意思の確認をして、自ら薬剤の点滴スイッチを押した瞬間は私の胸に弾丸を撃ち込まれたように一瞬、息が止まってしまった。

最期の最期まで周囲への気遣いを見せ、感謝を伝えながら人生を終わらせた姿は

ある意味憧れの死に方でもあるけれど、でもやはり点滴スイッチを入れた時には

後悔がよぎることはなかったのだろうか。

いや、こんなことを考えては彼女に失礼なんだろう。

そんな問いかけはもう、うんざりするほど彼女自身の中で繰り返し、

そうして決断した結果なのだから、それ以上でもそれ以下でもない。

自分で死を選んだのだ。

 

彼女と同じ難病にかかり、彼女よりももっと症状の進んだ女性へのインタビューもあった。

その彼女は、呼吸器をつけても延命することを選んで生きている。

支えはなにか?と問われると、家族、そして家族との何気ない会話と答えた。

家族は年老いた母親と娘。

機能が失われていく体。辛いだろう。安楽死を選んだ女性と同じく、自分の尊厳だって

守りたいだろう。

でも多分、もっと守りたいものは娘さんの存在なんじゃないかな。

日々成長していく娘。昨日とは違う今日の娘。

私ならば見ていたいと思う。TVとも違う、ネットとも違う、本の中とも違う、生身の自分の娘の成長。予測できない明日は誰だって楽しみだ。

 

二人とも私よりも若い。

それがとても辛い。

 

私なら。

と考える。

延命は出来ないような気がする。

痛いことが何よりもイヤだから。これまでの痛みは終わりがあるとわかっていたけれど、終わりがない痛みを耐える自信がない。拠り所もみつからない。

家族・・・もう皆大人になって、守るものでもないから、拠り所にはならないと思う。

では、点滴スイッチを押せるか?

何度も想像して考えるけれど、どうしても私は最終意思確認までしか想像できない。

スイッチを押した途端に「間違っていた!」と叫んでしまいそうな気がしてならない。

弱いのだ。

 

自分の残り時間を考える。

幸い、持病はいくつかあるけれど日常生活は無理なく過ごせる。

面倒な問題も抱えてはいるけれど、でもなるべく前向きに過ごしたいと思っているけれど。

さて、自分にどんな決断を迫られる時がくるかは全く予測できないわけで。

 

何度も何度も考えてみても答えが出ない。